岡本太郎はいかにして飯を喰っていたのか

「人間らしく生きたいので会社辞めます」

10数年前、8年ほど勤めた会社を辞める時、上司に伝えた言葉だ。
この会社、今でいうブラック企業であった。なにせ年間休日が20日程度しかなかったのだ。
色々と香ばしいエピソードはあるが書くのは止めておく。よく飼いならされた奴隷ほど己を縛る鎖の太さを自慢するというからな・・・

さて、冒頭の言葉「人間らしく生きたいので会社辞めます」は、当時傾倒していた芸術家の故・岡本太郎氏の著書『自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか』に触発されて出たものだ。当時、30歳も目前でありながら厨二病なサラリーマンなのであった。
岡本太郎氏は自身の職業を『人間』と言い切るだけあって、生命力溢れるその内容に圧倒された。ヴィレッジヴァンガードで気まぐれで手に取った本に人生観を一変させられたのである。


そんな岡本太郎氏(以下・太郎氏)の影響を受けたと宣いながら、氏の代表作のひとつ『太陽の塔』の実物を、数日前に生まれて初めて見たのだから、手に負えない。

間近で見る『太陽の塔』は古びて汚れていたが、それが返って人工物であることを忘れさせ、圧倒的な存在感をもって太古の昔からそびえ立つ巨木のように見えた。

さて、太郎氏の芸術理念は以下の3つの言葉に集約される。

  • 芸術はきれいであってはいけない
  • 芸術はうまくあってはいけない
  • 芸術は心地よくあってはいけない

これは僕の解釈であるが・・・風景や人物を美しく正確に上手に描くのが芸術というのであれば極論、写真でもいい。真の芸術とは己の人間性や魂を曝け出す真剣勝負である・・・これが上記3つの言葉に繋がっていく。つまり己の剥き出しが「きれい」、「うまい」、「心地よい」ワケがない。
詳しいことは氏の著書を読むことをお勧めするが、要するに太郎氏が駆け出しだった頃(太平洋戦争直後)の一般的な芸術論とは完全に反対側を向いていた上に、新聞に日本芸術界への挑戦状まで掲載した。当然、相当に叩かれたようだ。
そして、下衆な自分は余計な心配をしてしまう。

「こんな調子では有名になるまで飯を喰えなかったのではないか?」

純粋に太郎氏に傾倒した時代は過ぎ、40代となった今、気になるのはそこだ。

「天下の岡本太郎が喰えないワケがないだろう」と思われるかもしれないが、さにあらず。さすがの太郎氏にも下積み的な時期があったと想像する。

そこで、これまで読んだ太郎氏関連の著書や、ネット上の情報を集め、喰うに困らなくなったと時期と思われるベストセラー著書『今日の芸術』出版までの太郎氏の家計を想像してみたのである。あくまで想像に過ぎないので「ソースは?」等の追及はご遠慮願う。

【ご両親からの財産(遺産)があった】
太郎氏のご両親、岡本一平氏は漫画家、岡本かの子氏も作家と文化的な人物であった。
とくに一平氏は当時国民的人気の漫画家だったそうで、それなりの収入もあったのではないだろうか。
また、太郎氏が子供のころ、一平氏の仕事の都合で一家で渡欧。パリで10年ほど過ごしていることからも、経済的に恵まれていたと推測する。
一方では、一平氏の放蕩によって電気を止められたこともあるほど生活は苦しかったという話も・・・
太郎氏が成人になる頃には青山の一軒家(土地?)しか財産と呼べるものがなかったかもしれない。(青山ってだけで凄いが!)

【新聞の挿絵の仕事による収入があった】
太郎氏の生涯のパートナー故・岡本敏子氏の証言に「喰うに困って、いよいよ今日で終わりか・・・って時、新聞の挿絵の仕事かなにかが入って、なんとか食つなぐことができた」とある。
以前、1947年に東京新聞に連載された小説、坂口安吾著「花妖」のために太郎が描いた挿絵の原画が発見されたというニュースもあった。
(敏子氏との出会いは1948年なので、「花妖」とは別の挿絵の話と思われる)

【民族学者としての収入があった】
太郎氏はパリ滞在時に「自身が絵を描く理由」を追求するため、現地の大学で民族学を学んでいる。
その後、東京国立博物館で見た縄文土器に強い衝撃を受け、論文「四次元との対話―縄文土器論」を発表し、大反響となった。その後、同じように琉球諸島や東北地方の古い文化や伝統を再発見し、世に広めた。
これらの実績により、大学での講演会などに講師として招かれ、収入を得ていたのかもしれない。
以下に太郎氏の代表的な民俗学の著書を紹介しておく。これらは有名になってから刊行された可能性があるので、著書の印税は加味しない。

【パトロンが存在した】
古今東西、偉大な芸術の陰にパトロンありという。
太郎氏に関してはどうだろうか。僕の知る限り、パトロンの存在はないようだ。
そもそも岡本太郎にパトロンとか興醒めだろう?

【『今日の芸術』を執筆し印税が入った】
1954年、当時光文社社長だった故・神吉晴夫から「中学1年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、執筆・出版。大ベストセラーとなった。当然、印税も凄いはずだ。

『今日の芸術』がターニングポイントと見ていいだろう。これ以降、サラリーが生じると思しき仕事が増えていき、1967年の大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーにも就任することになる。
また、特異な人間性が面白がられ、テレビなどにも出演。「芸術は爆発だ!!」等の流行語も生まれる・・・ここまでくれば(以下略)

さて、ここで書き添えたいのは、僕がこれまで読んできた太郎氏自身が執筆した著書においては「生活できなくて困った」等という生臭い記述は皆無であったことだ。
むしろ「食えないなら食えないで結構」というスタンスである。
つまり、太郎氏の収入に繋がる情報は敏子氏を含む第3者によって語られていることが多い。

武士は食わねど高楊枝・・・とは、ちょっと異なるかもしれないが、岡本太郎は「岡本太郎」という人間を演じきったのだろう。

考察の際に参考にした情報源を以下に記す。また、上記考察に間違いや新たな解釈がある際は是非ご教示頂きたい。

最後に、このエントリーの準備中に見つけたサイトを紹介する。芸術家の「給料・年収・収入」について生々しく綴られていて、なかなか面白い。
最後に、同サイト内のこの一文にトキメキを覚えたことを記し、筆を置きたい。

『奥さんが働いてご主人が芸術に没頭するなど、周囲の協力を得て芸術家として活動している人が多いようです』





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