キッチンM

店の名前は「キッチンM」

20年ほど前、西武池袋線沿線の椎名町駅近くで暮らしていたことがある。
僕が住まっていたあたりの住所は目白だったが、JR目白駅周辺のセレブな目白とは違い、椎名町駅側の目白は下町風情満点の庶民的な街だ。

一人でフラリと入れる飲食店も多く、そんな中に老舗の洋食店「キッチンM」もあった。安くて美味しい上にボリューム満点、店の気取らない雰囲気もよく、人気店だった。
社会人となり、一人暮らしを始めたばかりで赤貧真っ只中だった(今もか・・・)僕も足繁く通ったものだ。




その日も、いつものように、キッチンMの使い込まれたカウンターで熱々のオムライスを頬張っていた。
ふと顔を上げると、ソイツがいた。一瞬目が合ったような気がする。

カウンター内側の厨房の柱をゆっくりとよじ登っていく、巨大な赤黒いゴキブリ。

触角を除いた体長は5cmはあろうか。ゴキブリどころか虫も大嫌いであったが、目が離せなかった。次にどんな行動に出るか、固唾を飲んで監視していた。
カウンターには僕を含め3~4人ほど客が座っていたが、アイツの存在に気が付いたのは自分だけのようだ。

スプーンにオムライスを載せたまましばらく固まっていると、ゴキブリに注がれる別の視線に気づく。
視線の元をたどると、キッチンMの若女将だ。生来の大きな目を更に大きく見開いてゴキブリを追っていた。いつも愛想が良い若女将からは想像もできない・・・歌舞伎役者が大見得を決めた時の表情を想起させた。思わずゴキブリよりも彼女に視線が釘付けとなる。

すると、若女将も僕の視線に気づき、そして僕らは見詰め合う。

彼女の眼は頷いていた。

そのメッセージを受けた僕はオムライスに視線を落とすと、一心不乱に食べ始めた。
カウンター内で何やら不穏な物音がしたが、気付かないふりを貫いた。
いつもと同じく、とろけるように美味しいキッチンMのオムライスのはずだが、それを楽しむ余裕などは無かった。ひたすら事務的に胃に流し込んだ。

どれほどの時間が経ったのだろう。見回すとカウンターには僕一人だ。
既にオムライスの皿は付け合わせのトマトを残すのみとなっている。

ゴキブリは、既に柱から消えていた。

店内のスピーカーからは・・・J-WAVEのGROOVE LINEだろう。ピストン西沢と秀島史香との掛け合いが響いている。いつものように西沢の下ネタを秀島が諌めているようだ。

さっきまで不在だったコック帽をかぶった老主人(恐らく若女将の父親だろう)が戻り、カウンター内でなにやら無愛想に下ごしらえをしている。
若女将はスピーカーから流れるサザンオールスターズのTSUNAMIに合わせて鼻歌を口ずさみながら食器を片づけていたが、これにピストン西沢のスクラッチが加わると、迷惑そうな顔をして鼻歌を止めてしまった。

何もかもいつも通りだ。




再び若女将と目が合う。すると彼女はカウンターの中から、カップになみなみと注がれた玉子スープを僕の前に静かに置いた。
彼女は何も言わなかったが、それがサービスであることに間違いはなかった。
この玉子スープはキッチンMではお通しみたいなもので、店に入り着席すると必ず誰にでも1杯づつ供される名物だった。
例に漏れず、オムライスが出てくる前に僕もそれを飲んでいた。

「すみません・・・」

グツグツに熱い「2杯め」のスープを火傷をしながら飲み干し、オムライスの皿に残ったトマトを口に放り込むと、僕はいそいそと会計する。
いつものように若女将は愛想よく送り出してくれた。

店を出ると、すっかり暗くなっていた。だいぶ日が短くなったようだ。
長く続いた残暑は和らぎ、街には秋の気配が漂っている。

その後も、数えきれないほどキッチンMで食事を楽しんだが、ゴキブリに二度と遭うことはなく、玉子スープを2杯飲めたのも、あの時一度きりだ。

店の名前は「キッチンM」

2007年頃まで西武池袋線、椎名町駅ちかくにあった。



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